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覚えている一番古い助っ人、ラインバックとブリーデン

野球

ラインバックとブリーデン

生まれた時からの阪神ファンを自任する私だが、覚えているのは自分が小学校に入学した6歳頃、西暦で言うと1976年頃からで、流石に細かいことまでははっきり覚えていないが、まだ田淵幸一が4番で、掛布もスタメンに入っていたこと、遠井吾郎が代打の切り札だったことなどは覚えている。

あわせて、当時の助っ人が、背番号40のラインバックと、背番号44のブリーデンというガイジンだったこともよく覚えている。今はあまり気にしなくなり、近本の背番号何番やったっけ?と言うまでに落ちぶれたが、野球少年だった当時は選手と背番号というのは一体のもので、田淵の22、掛布の31とともに、この両助っ人が日本人が嫌う4という数字を背番号しているのが、印象的だった。

ちなみに、日本人が嫌う4番を、遠井吾郎がつけていたような記憶があったが、遠井吾郎は24をつけていたようで、よくよく考えると4番は川藤幸三だった。川藤と言えば、酒豪であった遠井吾郎の「愛弟子」として、毎晩一緒に飲み歩いており、そのあたりの情報により私の頭のなかで混ざっていたのかもしれない。

マイク・ラインバック

40番のマイク・ラインバックは、主に右翼手(ライト)を守っていた。「マイク」の愛称で親しまれた、一塁へのヘッドスライディングなどガッツあるプレイが売りの外人で、1976年~80年の5年間、阪神タイガースに在籍し、毎年15本から25本程度の本塁打という、少し物足りないが堅実な成績を残した。

メジャー経験はわずか12試合、入団当初は「ダメ外人」などと言われあまり期待されなかった。山内一弘打撃コーチの指導で打撃が向上し、5年もの間タイガースの選手として活躍してファンに親しまれたが、帰国後の1989年5月20日、本国アメリカで自動車により事故死した際には、小さい記事が新聞に載っただけだったという。

ハル・ブリーデン

44番のハル・ブリーデンは一塁手としては珍しい左投げ(右打ち)の打者で、メジャーではシカゴ・カブス (1971)とモントリオール・エクスポズ (1972-1975)に所属した後、1976年に阪神に移籍し、78年までの3年間のうち、最初の2年で本塁打40本、37本と主力として活躍した。

打席での形相から「赤鬼」などと呼ばれたが、端正な顔立ちの大の話好きで、他の選手をホームパーティーに呼ぶなど、選手とのコミュニケーションを大事にし、チームに溶け込む姿勢は評価されていたという。引退後は故郷ジョージア州に戻り、1988年にはリー郡の郡保安官となったという。

1976年 〜1978年のタイガース

この両ガイジンが活躍した1976年、1977年あたりの、私が野球を見だした頃の阪神はどうだったのか見てみよう。1976年は吉田義男監督の2年目シーズンで、開幕投手は阪神、西武・広島で活躍した古沢憲司(通算87勝115敗25セーブ)。開幕は、

1番(二)中村勝広、2番(中)池辺巌、3番(遊)藤田平、4番(捕)田淵幸一、5番(一)ブリーデン、6番(左)東田正義、7番(三)掛布雅之、8番(右)池田純一、9番(投)古沢憲司というメンバーで、シーズン成績は1位巨人に2.0差の2位だった。

翌1977年は、吉田義男監督3年目で、クリーンナップに3番ラインバック、4番田淵幸一、5番ブリーデン、投手陣には江本孟紀、谷村智啓、古沢憲司の先発陣と、リリーフ陣も山本和行、安仁屋宗八、池内豊と充実しており、下馬評では優勝候補の本命であった。開幕は、

1番(二)中村勝広、2番(遊)藤田平、3番(右)ラインバック、4番(捕)田淵幸一、5番(一)ブリーデン、6番(三)掛布雅之、7番(中)池辺巌、8番(左)佐野仙好、9番(投)江本孟紀

というメンバーで挑んだ。優勝候補だったにもかかわらず、結果は優勝した巨人に21.0差の4位。吉田監督は辞任し、翌年は後藤次男が監督となるが、その1978年は41勝80敗9分のワースト勝率.339で球団史上初の最下位となり、その後80年までの3年間、Bクラスに沈む。

1985年の日本一

81~84年の4年間も3位、3位、4位、4位と低迷し、野球を見だした頃どころか、1969年に生まれてから1度も(1964年に藤本定義監督で優勝したのが最後)阪神の優勝を見たことのない私は、もう高校生になっていた。

その頃は、試合終了まで放映するサンテレビ(日本で最初に「プロ野球試合終了までの完全生中継」を開始した局、UHF神戸36ch。)で野球中継を見ていたのだが、私の住んでいた南大阪の山奥ではサンテレビは映りが悪く、わざわざブースター(増幅器)をつけて見ていた。

そこまでしても、勝利の女神は微笑んでくれないのだ。と諦めかけていた1985年。吉田義男監督とバース、掛布、岡田、そして真弓、佐野という超強力打線(チーム本塁打数219。2024年の67本の3倍以上。)により優勝、そして一気に日本一まで、私に届けてくれた。

しかし、連覇を狙った翌1986年に3位に落ちてしまうが、それはまだ良い方だった。1987年~91年の5年間(監督は、吉田義男、村山実、中村勝広)には最下位4回と5位が1回と散々な成績。だが、地獄にはまだ下があった。1995年から2001年の暗黒時代である。

1995年から2001年の暗黒時代

この7年間(監督は、中村勝広、藤田平、吉田義男、野村克也)、最下位6回と5位が1回。今思えば、野村阪神は3年間全て最下位だったのね…もう、この頃は死ぬまで優勝できないと思っていた。しかし、2003年の星野仙一監督、2005年の岡田彰布監督と2回の優勝を迎え、強い阪神が戻ってきた。

そして、2019年~2024年、矢野燿大、岡田彰布監督の6年間は、全てAクラスで優勝1回、2位3回、3位2回と安定しており、セ・リーグでは最も強いチームになりつつある。こんな時代がくるなんて…

しかも2023年は38年ぶりの日本一に輝いている。昨年は惜しくも連覇を逃したが、次は初の連覇を是非、私の生きているうちに見てみたい。今年も今のところ首位(2025年5月6日現在)をキープしており、今年優勝し、来年の連覇への足掛かりとしてほしい。

もし、連覇が日本一と同じように38年後までかかるとしたら、私は93歳かぁ。まあ、死んでるか、生きていても野球を見て野球と分かるかどうか…できれば後10年くらいのうちにお願いしたい。

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