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日暮れて道遠し(伍子胥と范蠡)

依存症

伍子胥伝

「日暮れて道遠し」(日暮れて途遠し)とは、日は暮れたのに道はまだまだ通い=「歳を取って後が無いのに、人生の目的がまだ達成できていない」や「期限が迫っているのに、まだ仕事が片付いていない」という意味の言葉である。

この言葉は、中国の歴史書である「史記」の「伍子胥伝」(ごししょでん)にある逸話からきている。

父を楚の平王に処刑された伍子胥は、楚に復讐を誓う。呉の将軍となった伍子胥は遂に楚を攻めたて、都である郢(えい)を陥落させた。しかし、仇の平王は既に亡くなり埋葬されていた。伍子胥はその墓を暴き、平王の死体に鞭を打ち、復讐を果たした。

あまりの仕打ちに親友の申包胥(しんほうしょ)に責められるが、その際に行った言葉が「吾、日暮れて塗(道)遠し、吾、故に倒行して之を逆施す。」(自分はもう年を取っているので、正しい道理に逆らった方法を採るのだ。)というもので、この言葉が「日暮れて道遠し」の由来となっている。

とんでもない激情家

なお、平王の死体に鞭を打ったことは「死者に鞭打つ」(亡くなった人を責め立てたり、悪口をいうこと)の、また「吾、故に倒行して之を逆施す。」は、「倒行逆施」(不当な手段で物事を行うこと。時代の流れに逆らって筋の通らない行動をすること。)という四字熟語の語源になっている。

とんでもない激情家であり、昔の話とはいえ、墓を暴いて死者に鞭を打ち、復讐を果たすというのは普通ではない。その激情が祟り、最後は主人となる呉の国王夫差(ふさ)と対立し、自害させられる。自ら首を刎ねる前に、伍子胥はこう言ったという。

「自分の墓の上に梓(あずさ)の木を植えよ、それを以って(夫差=国王の)棺桶が作れるように。自分の目をくり抜いて東南(越の方向)の城門の上に置け。越が呉を滅ぼすのを見られるように。」

伍子胥の死後、国王夫差は伍子胥の諫言を聞かず、覇者となるために隣国の越を捨て置き、他国を攻める。しかし、越に攻められて呉の首都姑蘇(こそ)は陥落する。国王夫差は「伍子胥に合わせる顔が無い」と顔に布をかけ、自ら首を刎ねて死んだという。そして、伍子胥の予言どおり、呉は越に滅ぼされる。

名臣范蠡

この呉と越の抗争は、元は辺境の地であった両国が、ともに強くなったことに拠る。それは、呉王闔閭(こうりょ)と夫差に仕えた伍子胥と、越王勾践(こうせん)に仕えた范蠡(はんれい)という名臣の力によるところが大きい。

伍子胥については、先に述べたとおり不遇な最期を遂げた激情の人であるが、一方の范蠡は、日本でも名臣として知られるが、さらにはその人生の処世が、すべての人が憧れるほど見事であることでも有名である。

位人臣を極めた范蠡は、呉を滅ぼした後、越王勾践の猜疑心が強いことを見極め、斉に脱出する。そこで商売を行い大成功する。評判を聞いた斉王は宰相として迎えに来るが、名を上げることは危険につながるとしてこれを固辞し、財産を売り払って斉を脱出する。

范蠡は、当時宋領となっていた定陶(ていとう)に移り、陶朱公(とうしゅこう)と名乗り、商売を始め、またしても巨万の富を経て、悠々自適の生活を送ったという。これが大商人の代名詞となった「陶朱公」である。

ギャンブル依存で貧乏

そんなお手本のような人生を過ごした范蠡に対し、不器用で悲惨な最期を遂げる伍子胥。自刃の元になった呉王との軋轢も、范蠡の策によるものという説もある。真似をするなら当然范蠡になるはずだが、伍子胥の情熱や直情にはすべての人が憧れる。

かくいう私も、タイプ的には伍子胥である。組織には従順になれず、うまく立ち回ることができないし、ギャンブル依存で貧乏この上ない。残る人生も短く、(自分はもう年を取っているので、正しい道理に逆らった方法を採るのだ。)という風にしか生きることができない。

だから、まだギャンブルにしがみついて、必勝法を探している。私が死んだら、その目をくり抜いて京都競馬場のゴール版の上においてもらおう。私の必勝法のとおり、馬たちがゴールを駆け抜けるのを見てやろう。

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